プロテニス選手、ロジャー・フェデラーはどのようにしてレジェンドとなり得たのか、その真相を彼の生い立ちから探ります。
ロジャー・フェデラー
生年月日:1981年 8月8日
国籍:スイス身長:185cm
体重:85kg
利き手:右利き
バックハンド:片手打ち
デビュー年:1998年
出生と両親
生まれはスイス バーゼル。
父ローベルト・フェデラー(スイス人)と母リネット・フェデラー(南アフリカ出身)の第二子、長男として誕生した。
両親共に製薬企業チバガイギー(現ノバルティス)で働いており、親しくなっていく中で母リネットは父ローベルトからテニスの手ほどきを受けるようになります。しかし次第にリネットの方がテニスの才能を開花させていくことになります。
趣味としてテニスを楽しんでいた二人ですが、さらなるテニス技術の向上を目指しリネットはバーゼルでも指折りのテニスクラブへ入会し本格的な練習を開始しました。
そこで全国テニスクラブ対抗選手権の優勝メンバーとして活躍していたこともある程の実力者でした。
両親共にテニスに親しんでいたことも大きく影響しロジャーは3歳で始めてテニスラケットを握ることとなります。場所はチバガイギーのテニスコートでした。
毎週末両親とテニスコートへ行き遊び感覚でテニスに触れていきます。
その頃にテニスクリニックやテニスクラブ協会主催のテニストレーニングなどに参加し次第に熱中していくようになります。
「家で棚に向かってボールを打っていた。母親は一日中、家に響き渡る”バーン”という音に辟易したいたよ。」-ロジャー・フェデラー
母リネットは次第にロジャーの持つ素質に気付き始めます。
その才能をさらに高めるべく母リネットの所属する「オールド・ボーイズ・バーゼル」のジュニアクラスへ入会させます。
この時ロジャーは8歳。ここから本格的にテニスのキャリアをスタートさせます。
このクラブでレジェンドと呼ばれるロジャーのテニスの基礎が築かれます。
この基礎を築くのに大きな役割を果たすのが8歳から14歳までコーチをすることになる「セップリ・カコフスキー」でした。このクラブで最初にロジャーの類い希なる才能に気付いたのもカコフスキーでした。
スピード・動体視力・フットワーク・パッションのあらゆる面で秀でていたと言います。
また同時期(1991年〜1994年)には個人レッスンをピーター・カーター(オーストラリア)からも受けています。
このカーターからの指導は1994年で一旦終了していますが、後に再会しプロデビューまでコーチを務めた人物でもあります。
テニスクラブに入会したロジャーですが、12歳になるころまで「FC・コンコルディ・バーゼル」というプロサッカーチームの下部組織にも所属していました。
このクラブでストライカーとして活躍していたロジャーですが、テニスを優先しがちだった為に当時のサッカーコーチからすべてに練習にでられないなら、週末の試合に出すことはできないといわれロジャーは決断します。
トップクラスのサッカーチームの年上グループでプレーしていたけど、テニスの大会にも出場していたので、サッカーの試合に全て出場するのは無理だった。死ぬまでサッカーとテニスの両方をすることは出来ないし、当時は左足が弱かったので、あのままではいずれ駄目になるだろうと分かっていた。だから、僕は最終的にテニスを選んだんだよ」-フェデラー
ロジャーの子供のころの性格
いまではたびたび人格者として語られるロジャーですが、
子供のころのフェデラーは普段は良い子供として知られていましたが、気に入らないことがあると徹底的に反抗するような癇癪もちでもあり、姉ダイアナからもあまりにも悪戯が好きなため「小さな悪魔」と呼ばれるほどでした。
学校でも元気いっぱいで遊ぶことや、スポーツが大好きな少年でしたが授業にはあまり集中できなかったようで学校の成績は目立ってはいなかったようです。
テニスの試合中でも練習中でも感情の起伏が激しく練習から追い出されることもしばしばあり、今のようにいかなる試合の局面でも冷静沈着に対応するロジャーからは想像もできないような子供でした。
口癖は常に「世界ナンバーワンになる!」でした。
ナショナル・テニスセンターで今後の目標を発表する機会があり他の子供達は「トップ100に入りたい」「プロになりたい」というものでしたがロジャーだけは「トップ10に入り、その後世界ナンバーワンになりたい」というものでその頃から明確にトップになるという意志を持っていました。
練習もかなりハードなものだったようですが、練習後にもラリーの相手を見つけて納得がいくまでラケットを離さないような野心的で、意欲的な子供でもありました。
サッカーを辞め本格的にテニスに専念する環境の中徐々に国内のジュニアトーナメントで頭角を現し始めます。
そして1995年9月ワールド・ユース・カップでスイス代表に選出されオーストラリアと対戦することとなり、ロジャーはその試合で後に世界ナンバーワンとなる「レイトン・ヒューイット」と対戦しました。
その頃のヒューイットはフェデラーよりも一足先に注目されており、この対戦の4ヶ月後にはプロ転向するほどの実力を備えていました。
この対戦は将来を嘱望される二人の試合としてマスコミ関係も集まる程注目されていました。
結果はロジャーの勝利でした。スコアは4-6、7-6(3)、6-4。
その後互いにプロ転向しますがそこでも一足先にヒューイットが実力を発揮し世界のトップまで登りつめて行きました。
スイスのテニス環境にも変化が
1997に同じスイス出身の天才少女と呼ばれたマルチナ・ヒンギスが全豪オープンを優勝し、スイス勢に史上初めてのグランドスラムタイトルをもたらします。そのままの勢いでこの年はウィンブルドン選手権、全米オープンも優勝し世界ランキング1位に登りつめます。
これによりスイステニス界はかつてないほどの盛り上がりを見せ、ジュニアの育成環境にも予算がつき急ピッチでスイス国内のテニス環境が改善されて行きます。
それまでのスイスは錦織圭選手が出てくる前の日本と同じような環境で国内でトップを極めてもなかなか国際大会で活躍できない時期が長くありました。
それがこのヒンギスの登場により一変します。
スイステニス協会はテニスのパフォーマンス・運営センターをオープンさせトップジュニアとツアープロの練習拠点とし、これによりロジャーも練習拠点としてここの施設に通うこととなりました。
ここには多くのコーチも各国から招かれその中には以前ロジャーのコーチを務めたピーター・カーターもおり、運命的な再会を果たします。
ピーターはロジャーがプロデビューするまでコーチを勤め上げます。
飛躍の年、そしてプロに!
1998年、16歳になったフェデラーはジュニアサーキットを席巻して行きます。
全米オープン・ジュニア準優勝、オーストラリア・ジュニア・ヴィクトリア選手権、フィレンツェ国際ジュニア、マイアミ・オレンジボウル、ウィンブルドン選手権・ジュニア優勝と次々にジュニアのタイトルを獲得して行きます。
そしてこの年にはついにジュニア世界ランキングを1位に登りつめました。
この戦績によりATPツアーの2大会に招待枠で出場し、ATPツアー初戦となる試合ではルーカス・アーノルド・キブロンに敗れたものの、フランスのツールーズではギヨーム・ラウーを6-2 6-2で下してツアー初勝利を飾り、ツアーでも手応えを得たフェデラーは、いよいよプロ選手として活動して行くこととなります。